9
「今何時だ」
「13時です」
「フウコから連絡はあったか?」
「ありません」
計画通りだ、とイブは微笑む。娘は、フウコという試練をクリアしたのだ
「揚陸せよ」
「わかりました」艦長はそういうと機関室へと向かって去って行った。
イブは居住室から出てメルローズの船首方向へと続く、大人がすれ違うのがやっとの狭い通路を進む。そのまま脱出ポッドへ接続する扉を潜り抜けた。
「準備完了しました」
先に脱出ポッドに乗り込んでいた船員2人がイブの姿を見るなり後ろを向いて立ち、頭を下げた。イブが手をひらりと振って座れと促すと、船員は後ろに向き直って座る。ポッドは大型のワゴン車程度の広さで、6つのシートが並んでいる。
「イブ、それでは行きましょう」 艦長がそう言いつつ乗組員を1人引き連れてポッドに入ってきた。
「お前はまだ残らねばならないのではないか?艦長」
「最後のお見送り位はさせてください。イブを見送った後、私は艦に戻ります」
「……まあいいだろう」
全員がシートに腰掛けると一番前に座る乗組員が「離艦します」と告げると、暫く機関の動く音が聞こえ、やがてそれが途切れるとポッド全体が上昇し始めた。
「本当に最後ですね」イブの隣に座った艦長が言う。
「そうだな。最後だ」
「貴女について行くのは大変でしたよ。イブ。今だから言わせてもらいますが。随分無理な要求をされてきましたし、死にかけたことも何度もあった」
「……」
「それでも私がこの組織を辞めなかったのは貴女に恩があったからです。貴女は、東京大震災で孤児になった私を拾いずっと世話をして下さった。私がスネークヘッドに拉致されて拷問を受けていた時も、貴女はどうやったのかは知らないが現場を探し出して直々に助けに来てくれた」
「あれは……まぐれだ。たまたまお前の居場所がわかっただけだ」
「いいえ、それは嘘です」そう言うと艦長は俯き、イブの両手を握った。
「貴女はいつも、私以外の部下の危機も察知して手を尽くし、絶対に助けてくれた。そして今も、私の生活のことを考えて住処を用意してくださっている。感謝の言葉を尽くしても尽くしても決して足りることなどないでしょう」
そう言うと艦長はくぅっ、と言うような声を上げ、鼻をすすり始めた。イブの手に温かい滴がぽたり、ぽたりと落ちる。イブは溜息を吐きつつ上を向いて目頭が熱くなったのを誤魔化す。
「それはこちらの台詞だ。艦長。お前たちフィーリアは文字通り私の手足となって働いてくれた。お前たちが危険な時に私が行くのは必然だ。お前たちを危険な目に合わせている張本人がこの私なのだからな。それが筋と言うものだ。だからそこまで畏まられると困る。私の方こそお前たちに感謝してもしきれない」
「イブ、どうか思い止まってください。感謝してもしきれないと思っているなら、生きて俺達のそばに……」
それは弱々しい一言だった。無理だと分かっていても発せずにはいられない、そんな一言だった。
「わかってくれ。潮時なんだ。いつまでも老人が上に居座っているような組織に未来はない。池の底に溜まって澱んだ水が腐って悪臭を放つようにな。古い水を捨てて新たな水を入れなければならん。そして新たな水があの子なのだ。私ら老兵は捨てなければならない」
「だったらアルヴェアーレを抜けるだけでいいじゃないですか!それを何故、死ぬなどと……」
「私はもう疲れたのさ。私は好きで30年も生きてたわけじゃない。私が死ねば路頭に迷う人間が沢山いたから仕方なく生きてきた。そして30年の間にその人数は増える一方だった。だが今やあの子がいる。あの子が私の後を継いでしまえば私にはもう生きる理由が無い。それに私はあの子を育てるためにあの子の心に憎悪を植え付けた」
昔私がされたのと同じように、とイブは内心で呟く。
「あの子が私を目の前にしておいて生かしておくなんてあり得ると思うか?ここまで実力でのし上がってきたあの子には私を殺す権利があるし、私を殺さないという選択肢はあの子には無いはずだし、彼女が私を殺したいと願うのならば甘んじて受けるのが筋だ」 艦長は言い返さず、ポッド内に沈黙が下りた。
そのまま暫くすると少しずつポッド内が明るくなってきて、海面までもうすぐだとイブは知る。別れの時が近付いていた。
「わかった、やっぱりやめよう。計画を変更する。私はあの子に今から会う。だがその後私は絶対に生きて逃げのびてみせる」
その言葉に艦長が顔を上げた。
「だが、フウコや艦長と会えるのが何年先になるかはわからない。艦長は下手に動けばあの子に所在を知られて殺されることになりかねないし、あの子から逃げのびた私はそれ以上に危険だ。だが必ず、何年後か何十年後かは解らないがどこかで会えるはずだ」
「……わかりました」
ポッドの上昇が止まり、ポッド前方の窓からポッド内へ陽光が燦々と降り注ぐ。
「確かにこの耳で聞きました。約束ですよ、イブ」
「ああ、私の方から会いに行こう。だからお前は私の用意した場所で待っておけ。私からの最後の命令だ」
艦長は頷くのと同時にぷしゅうと音がしてポッドの脱出口が開いた。
「ではお別れだ、艦長……くれぐれも元気にやれ」
「待ってくださいよ。最後くらい、ちゃんと名前で呼んでくださいよ」
少し元気を取り戻したふうに艦長が言い、イブは思わず微笑んだ。
「何がおかしいんですか」
「いや、なんでもない。それじゃこれで本当に最後だ。さようなら」
そう言うとイブは艦長の名前を口にした。
10
「ヤマトさん、今日は誰か付けてください。一人で行くのは駄目です」
「大丈夫だと言っているだろう。輸血もしたし傷口も縫ったし痛み止めも打った」
「それでも一人でイブと会うなんて無茶ですよ。せめて誰か一人付けてください」
「一人で会う訳じゃない。お前たちがすぐ外に居るじゃないか。何かあったらすぐに対応できる」
「駄目です」
いつもは従順な部下が、車の運転席に座って運転をしながら、ぴしゃりと言った。
「イブがどんな女か、誰も知らないんですよ?もしとんでもなく危険な人物だったらどうするんですか。俺はヤマトさんを危険な目に遭わせたくないんです」
「私は奴と二人きりで話したいこともある。誰にも邪魔されたくないんだ。わかってくれ」
「何故です?我々じゃ信用できないっていうんですか?」
「そうじゃない」
イブは4人乗りのオフロード車の後部座席に座り、溜息を吐きながら言った。
「……とにかく、私は今日は一人でオマエザキ灯台の中へ行く。お前たちは灯台の外で待機だ」
「何故です?リボルタの計画では我々が先頭に立ってイブを拘束する手はずだったじゃないですか」
「とにかく私の言うことを聞け。計画は変更になったと言っただろう」
「矢張り昨日何かあったんですね?」
「まあ、そうだ」
「教えてください」
いつもは従順な部下の口数の多さにうんざりしながら、ヤマトは口を開く。
「お前が知るべきことじゃない」
「いいえ、ヤマトさんは話すべきです」
部下の怒気を込めた声にヤマトは驚いた。「俺が昨日どれだけ心配したと思っているんですか!ヤマトさんが一昨日出掛けて、昨日の夕方シズオカの事務所から連絡が来たから行ってみれば意識が飛んだヤマトさんが寝かせられてて、聞けば、いきなり血塗れでフラフラになりながらヤマトさんが帰ってきてそのまま気絶したって」
ヤマトは溜息を吐いた。フウコの言葉が思い浮かぶ。「お前の命は最早、お前ひとりのもんじゃ無くなってんだよ」その通りだった。
フウコ。もうこの世にはいない。本名も知らぬ内に私が殺した。そう考えながらヤマトは拳を強く握りしめる。
「今日の夕方に目を覚ました時はどんなに安堵したことか。わかりますか?なのに、何があったか俺達には何も言わず、挙句の果てにオマエザキ灯台にヤマトさん一人でマイクを付けずに行くとおっしゃる。出過ぎた真似と言われるかもしれませんが、ヤマトさんがもし怪我をされるようなことがあったらと思うと気が気じゃないんです。せめて、昨日何があったかぐらい聞かせてください。今日これから何をなさるつもりなのかも。それが出来ないと言うなら俺を一緒に連れて行ってください。……いえ、無理矢理にでもついて行きます」
車の窓から見える外の景色は暗く、すっかり夜の帳が下りていた。時々街灯の明かりが瞬いては後方に消えていく。
「お前に心配されるとは私も随分舐められたもんだ。いや、その前に謝るべきか。お前たちを心配させてすまなかった。」
ヤマトの口からそんな言葉が零れ落ちた。
「昨日あったことと今日これからすることか。それを話せばいいんだな?」
「ええ」
ヤマトは一旦瞼を閉じた。言うべきか言わないでおくべきか。イブからの、情報の漏洩は許可しない、という指令を思い出す。やろうと思えば、ここでスドウを怒鳴りつけ、何も話さずヤマト一人でオマエザキ灯台に行くことも可能だった。
だが、任務を遂行し終わった今はおそらく話しても大丈夫なはずだ。つまり、私が話したいかどうかが重要だ、そうヤマトは思う。数秒間の逡巡の後、ヤマトは再び瞼を開いた。
「昨日の朝から、私はオマエザキ灯台で張っていたんだ。夕方にそこに来る男をワタせという指令を受けてな」
そこらからヤマトは、フウコを殺した一部始終を語った。
「ではその後、事務所に帰ったということですか?」
「フウコの死体を担いで、な。どうしても置いていけなかったんだ。あいつは私たちが入ったばかりの頃に色々教えてくれただろう?」
「まあ、ええ。最近は会っていませんでしたが。私とは階級が違い過ぎて」
「そうか。奴はこの5年ほど私の直属の上司だった。色々教えて貰ったし助けてもらった。そんな世話になった奴の死体を野に晒しておくなんてできなかった」
そして奴は、父親みたいな存在だったんだ、とヤマトは心の中で呟く。
「奴の身体を担いで車の中に寝かせた時だ。胸ポケットから封筒が覗いているのに気が付いた。どうしても気になって開けてみると中に手紙が入っていた」
そう言うとヤマトは目を閉じて昨日の出来事を思い返しながら、口を開いた。
フウコの胸ポケットに入っていた封筒を取り敢えずヤマトはスラックスのポケットにしまい、オフロードカーの運転席へと座る。ダッシュボードを開いて顆粒状の止血剤を取り出し、血を吸って赤黒くなった上着をどけて腹部の傷口に全て放り込む。たちまち止血剤がヤマトの血を吸って膨張し、傷口を塞いだ。
それが終わるとヤマトは、ダッシュボードの中からオピオイドを取り出し、震える手で腕の静脈に注射する。10分ほどで痛みが和らぎ、ヤマトは絞り出すようにして息を吐いた。ヤマトは後ろを振り返った。
微動だにしないフウコの死体が後部座席に仰向けに横たわっていた。車窓から差し込む夕日がその死に顔を全身を橙に染め上げ、その目は虚しく空中を見つめていた。
「夢じゃ、ないよな」
そう言ってヤマトはなんとか笑顔を作った。
「フウコ、やっぱりあんたのジンクスなんて信じるべきじゃなかったよ。忘れちまえば良かったんだ。おかげであんたをワタしちまった。父親みたいに思ってた、あんたを」
そう言うとヤマトはフウコの顔に手をやり、その瞼をそっと閉じた。上を向き、鼻をすする。私はエレナじゃない、ヤマトだ。そう自らに言い聞かす。強くなると、絶対に泣かないと自分に誓ったじゃないか。
ヤマトは慌てて自分のスラックスのポケットからさっきフウコからとった封筒を取り出した。何かをしていないと涙が零れてしまいそうだった。封を破ると、中から一枚のコピー用紙が出てきた。ヤマトはその文面に目を落とす。
ヤマト、私が最も愛する娘へ
任務は成功したようだな。おめでとう。だが休んでいる暇はない。次の任務だ。
一.明日の20時、私に会いにオマエザキ灯台に来ること。
二.ヤマト一人で灯台の中に入ること。もし一人で来なかった場合、私は自殺する。速やかに安楽死を行う用意が、私にはある。
イブより
「ふざけやがって」
ヤマトは歯を食いしばり、拳を強く握った。頭がみしり、と軋む。怒りが喉元からせり上がり、怒号となってヤマトの口から飛び出した。
「貴様は絶対に許さん、イブ。嬲り殺してやる。楽には死なせんぞ」
明日、か。ヤマトは己の傷を見やった。間に合うだろうかという思いが一瞬脳裏を掠めたが、すぐに思い直した。間に合わせるのだ、と。そのためには一刻も早く治療を受ける必要があった。ヤマトはキーを差し込み、エンジンをかけると車を発進させた。
「……そういうわけだ」
ヤマトは話し終えると、ほうっと息を吐いた。肩が軽くなる心地がし、その時初めて、ヤマトはこのことを誰かに話したかったのだと気が付いた。
「イブを簡単に死なせたくはないし、聞きたいこともたくさんある。それを達成するには私一人で行く必要がある。私以外の人間が行けばイブは自殺してしまうだろう。それも安らかに、だ。そんなことは絶対に許せない」
車内に沈黙が下りた
「わかりました、ヤマトさん」
先に沈黙を破ったのはスドウだった。
「話したのだから、私一人で行かせてもらうぞ」
フロントガラスにオヤマザキ灯台が小さく見えて来て、車が減速していく。やがて、オマエザキ灯台の北側、50メートルほど手前でスドウは車を停めた。
「これだけは約束してください。絶対に無茶はしない、と。危なくなったら我々にコールを」
スドウが後部座席を振り返って言った。
「わかっている」 そう言うとヤマトはドアを開けた。
「ヤマトさんお疲れ様です!」
幾人もの声が夜空に響く。フィーリアが数十人程並んでいた。あたりにはトラックやSUVが数台停まっている。
「そういうのはいいから、静かにしろ。状況は?」
数十人の中から大柄な男が一人進み出て、口を開く。
「20分前に我々の第一陣が到着しました。ヤマト様の御命令通り、灯台には入らず、現地点で監視を続行中。高感度カメラにより、中からは僅かに明かりが漏れていることが確認されており、現在灯台内部に目標がいると思われます。以上です」その目標がイブであると知ったら、目の前のこの男はどのような反応をするだろうか、とヤマトは想像する。元々、リボルタの全容を知っているのもスドウとヤマトの二人だけだった。情報の漏洩を怖れた結果だ。
「ご苦労。様は付けなくていいぞ。後はスドウの指示に従え。スドウ!頼んだぞ。灯台内には誰も入れるな」
「はい」
スドウの声を背後に聞きながら、ヤマトは灯台の入口へと向かった。その背後で、スドウの指揮によりフィーリアが所定の位置へと移動する。
入口脇まで行ったところでヤマトは、MAC11を取り出し、左手に構えた。暗闇に目が慣れるのを待ち、中を伺う。
灯台内部に、簡易テントが張られていた。銀色のアルミ箔でコーティングされた小さいテントだ。ヤマトはMAC11を構えたまま慎重に灯台内部に入り、そのままテントに近づく。側面に回り込むと、ファスナーで縁どられた入り口が姿を現した。
「来たね。面倒かもしれないがファスナーを開いて中に入ってくれ」
テントの中から女の声が聞こえた。ヤマトはまだ痛む右肩を気にしながら右腕を伸ばし、ファスナーのスライダーを掴んで引き下ろした。
小さな、2メートル四方程度しかないテントの中に机と椅子を二脚持ち込み、その二つの椅子の内の一脚に腰掛けた女が、こちらを見て微笑んでいた。上から裸電球が一本垂れ下がり、弱々しく橙色の明かりを放っている。
女は黒い、革製の丈の長いコートを羽織り、フードをすっぽりと頭に被せている。フードから覗く顔は、記憶の中よりも老けてはいたものの、間違いなくあの時の女だった。悪夢の中から抜け出してきたような錯覚に捉われ、ヤマトは僅かに身震いをした。
「ファスナーは最後まで閉めてくれ。久しぶりだな、ヤマト。いや、エレナ」
テントに入るや否や、イブはそう話し掛けてきた。その呼び名に、ヤマトの心が揺れた。
「知っていたのか」
「何度も言わせるな。ファスナーを閉めろ。話はそれからだ」
ヤマトが後ろ手にファスナーを閉めると、イブが再び口を開いた。
「ではその物騒な銃を仕舞って、身に着けているであろうマイクを取り外してもらおう」
「貴様、馬鹿にしているのか?下らない命令ばかりしやがって。今すぐこいつでお前をワタすことだってできるんだぞ?」
「お前はそうしないだろう、エレナ。それじゃあっけなさすぎるからね。お前が私に向ける憎悪はそんなもので満たされるような、生半可なものじゃないはずだ」
「その名前で呼ぶな」
ヤマトは静かに怒気を込めて言い放ったが、イブは意に介さない様子で再び口を開く。
「それに加えて言ったはずだ、私には速やかに自殺する用意があると」
言うや否や、イブは羽織っていたコートを開いて見せる。
その内側には、数十個の筒が並び、さらにその1本1本から伸びた電線が束ねられ、イブが握りしめているスイッチへと接続されていた。
「プラスチック爆弾だ。15キロある。これだけあればこの灯台は跡形もなく吹き飛ぶだろう。さらに言えば、私がこのスイッチを離すと起爆する」
そう言うとイブは握りしめているスイッチを振って見せ、肩を竦めるような仕草をしながら微笑んだ。
「そういうことだ。不用意に私を刺激しないことだな。さもなければエレナ、お前も、外に居るお前の部下たちも皆死ぬ。さあ、そのMAC11を仕舞ってマイクを外せ」
相も変わらずえげつない行為(文字数オーバー)をし続けてるからまた尻切れトンボでち戻る