3
全くもって非道い話だ。イブはそう苦笑しながら久々にシガーを取り出した。ここ30年ほど吸っていなかった時代錯誤の嗜好品。需要が減った関係で、30年前の5倍以上の値段がしたそれを突然吸ってみたくなったのは、もう長生きする必要が無くなったからだろう、と自己分析する。
シガーに火をつけて煙を肺いっぱいに吸い込むと、懐かしい香りが広がり、煙が己の気管をチクチクと刺激する。
「非道い話だ」
今度は口に出して言う。それは、イブがこれから実行しようとしている娘への仕打ちに対する感想だった。30年前、イブ自身が同じ仕打ちをされたのを思い出す。思い出す度に古傷が疼く。当時は激しく憤ったものだった。しかし。当時、その憤りのやり場は無かった。そういう風に仕組まれていたのだ。彼女にできたことは、目の前に山積みとなって立ちはだかった課題を必死にこなすことだけだった。彼女がそうせざるを得なかったのは、人の繋がりの糸に絡め取られ、組織という化け物に取り込まれた結果だった。それも全て仕組まれたことだった。
そして、今。イブは、自身が仕掛けられた罠と同じ様な罠を娘に仕掛けようとしていた。そこに、彼女個人の意思は無いに等しかった。彼女の周囲の人間、あるいはアルヴェアーレという組織の思惑が、彼女を通して仕事をしているにすぎなかった。と、そこまで考えてイブは苦笑した。自己欺瞞だ。彼女は自分を嘲笑う。己が娘を罠にかけることに対する罪悪感から逃れたいが故の自己欺瞞。あるいは、昔の自分自身を裏切ることに対する罪の意識からの逃亡。後者の方がより真実に近いだろう。
結局、私は私が一番大事で、他人のことなど二の次、そういう人間なのだと、彼女は自嘲する。しかし同時に、彼女はそんな自分自身を嫌っているわけでもなかった。いや、むしろ好ましく思っていた。他人は二の次一番は自分という事実を受け止めること。それは強者の条件だと彼女は考えていた。そして同時に、彼女は自らが強くあることを望んでいた。
4
「お疲れ様です、ヤマトさん」
ヤマトが面倒な手順を踏んで地下事務所へと帰ってくると、スドウのハキハキした声がヤマトを出迎えた。
「仕事はどうだ」
「はい、監視カメラの映像は回収しました。電話でおっしゃった5人については、名前だけでは限界がありまして……おそらく今回の日本への渡航一度限りの偽名かと」
「写真がある」
ヤマトは、デスクの上に5枚のパスポートを置いた。
「調べろ」
「はい」
「それからトラ屋の件はどうなった?」
「取り敢えず現物をフクオカの事務所に納めさせはしましたが、奴らタンザクを出し渋って、取引現場襲った奴を調べ上げてワタすからそれで許してくれとほざいてます」
「両方やらせろ。タンザクは通常の倍、50億。今月中に。取引を襲った奴を捕まえさせて、生かしてここへ持って来させろ。マトモに話せる状態でな。絶対にワタすな。そいつのマジカンを吐かせてから殺す」
「わかりました」
「プロドートは誰かわかったか?」
「現在情報収集中です。トラ屋が他所へタレ込んだ可能性もありますが、ヤマトさんの言う通り、イブの仕業というセンも十分考えられます」
「考えられます、だと?」
ヤマトはデスクの引き出しからベレッタ92を取り出して左手に持ち、右手の人さし指でデスクをコツコツと叩きながら苛立ちを露わに言う。
「まだプロドートが誰か突き止めてないのか?あのトラ屋との現物渡しの現場、邪魔されてからいくら経ったと思ってる?半月だぞ!遅すぎる」
「すみません」
スドウが言い終わるや否や、ヤマトは右腕を上げ、ベレッタの引き金を引いた。地下室中に鋭い銃声が響き渡り、ヤマトとスドウの耳を劈いた。
「私を失望させるな。お前を失うのは私の本意では無い。お前は私が大事に育てた部下なんだから当然だ。が、結果が伴わなければ始末しなければならん。それがアルヴェアーレという組織だ」
「はい」
強張った顔をして、スドウは頷く。ヤマトのベレッタから放たれた弾丸はスドウの頬にかすり傷を残し、背後の壁に突き刺さっていた。銃器の扱いに長けたヤマトだからこそ出来る芸当。
「我々は極限まで利益を追求する、究極の営利団体だ。利益を生むものには何でも貪欲に手を出すし、手段も選ばない。その一方で利益を生まないものは切り捨て、コストを削減する。例えそれが人間であってもだ」
「はい」
「それと、リボルタは予定通り3日後に行う。それまでに必ずプロドートを見つけてそいつのマジカンを吐かせろ」
スドウが頷くのを見てとると、ヤマトは上半身を乗り出し、スドウの唇に自らの唇を重ねた。驚愕の表情を浮かべたスドウに構わず、ヤマトはそのまま舌を差し入れる。数秒遅れて、スドウも舌を動かし、束の間二人はお互いの口内を貪った。
「期待してるぞ」
10秒間ほどの長いキスを終え、惚けたような表情をしたスドウを差し置いてヤマトは笑顔を作り、そう言うと、自らのデスクへ戻った。
「どうした、さっさと仕事を始めろ」
その声に我に返ったように、スドウは慌てて携帯電話を取り出し、耳に当てようとしてその手を止めた。
「ヤマトさん、その、今のは?」
「仕事をしろ」
スドウは開きかけた口を閉じ、黙って頷くと、今度はしっかりと携帯電話を握りしめて電話をかけ始めた。
スドウが電話に向かって怒鳴る声を聞きながら、ヤマトはフウコから受け取った封筒をペーパーナイフで開封する。イブからの指令は、イブ直筆の紙媒体でフウコを通して渡されるのが通例だった。非常にアナログな方法だが、機密保持の点で優れているというのも事実だった。少なくとも電子データのように遠く離れたどこかからクラッキングされる心配は無い。
「スドウ」
ヤマトが出した声はいつもよりもわずかに細く、掠れていた。
「はい」
漸くいつもの冷静さを取り戻した部下は、そんなヤマトの変化に気付くことなく、ヤマトの顔を真っ直ぐ見た。
「確認するが、イブがいつも金曜に現れるスルガの灯台の名前は?」
「オマエザキ灯台です」
ヤマトが目を落としている紙には、こう書かれていた。
ヤマト、私が最も愛する娘へ
一、これは極秘任務である。ヤマト一人で遂行すること。情報の漏洩は許可しない。
二、明日、オマエザキ灯台に16時半。
三、目標は灯台内の男一人。
四、ヤマト単独で任務を遂行すること。複数人での任務遂行は許可しない。
五、武器はベレッタ92を灯台内に準備しておく。指定時刻より前に灯台へ行き、準備しておいたベレッタで殺せ。
六、上記の条件を達成できなかった場合、ヤマト及びヤマトの部下全員、その家族を含めて制裁を与える。こちらにはその用意がある。
イブより
5
イブは、窓から見える地球をじっと見ていた。その表面に広大な水を湛えた青い生命の星を見るのを、彼女は好んでいた。生き長らえるために地球を捨ててここに来てからもう20年か、とイブは考える。どうにか部下たちの世話をやり遂げ、その始末をつけるのに30年もかかってしまった。そのためだけに30年間生きてきたと言ってもいい。つい最近、ずっと後回しにしてきた、私の右腕となって働いていた男の家族も始末をつけた。彼らは犯罪とは縁の無い人生を送ることができるだろう。それが、私が自分に課した最後から2番目の仕事だった。そして、最後の仕事ももうすぐ終わる。そう考えつつ彼女はシガーを取り出してその先に火をつけた。
イブは分厚い窓ガラスを通して、青い母星を見ながら、彼女にしては珍しく感傷に浸っていた。それは、彼女が地上へ降りて長期休暇を、永遠の眠りを手にすることへの代償でもあった。
今までの30年間、私は義務感だけで生きてきた。そうイブは心の中で呟く。私のために働いてくれた者たちのために生き、彼らの未来がなるべく幸せになるよう手を尽くしてきたつもりだ。そしてその為に他の無関係な人々の生を踏みにじり、そしていつの間にか組織も大きく成長してしまった。罪深い人生だ。もっとも、そんなこと大して気にしちゃいないが。
そんなことを考えていると、デスクの上の電話が鳴った。
「もしもし?」
「イブ、私です。」
聞き慣れた男の声。私の右腕として長年働いてきた男の声だった。
「計画は順調です。明日、オマエザキ灯台に予定通り入ります」
「そうか」
「イブ、私はこの計画に納得したわけではありません。明日は全力で挑むつもりです。もし私が奴に勝てなら、どうか計画を中止してください。どのような処罰でも甘んじて受けますから」
「それは無理だ、フウコ。私はもう疲れた。30年前から義務感だけで生きてきたんだ。それにあの子が私を生かしておくはずが無いのはわかっているだろう?」
「しかし……あの小娘にイブが殺されるのを見過ごすことは……私には……とても辛い」
「その点については前に詫びたはずだ。そして、お前は最終的には私の言うことを受け入れてくれた。今さらそれを取り下げるなど認めないぞ」
電話口に沈黙が降りた。
「……フウコ、私の右腕となって働いてくれたお前だからこそ頼める仕事なのだ。どうか、私の最後の我儘だと思って聞いてはくれないか」
「……」
「聞いてくれるな?」
「……はい」
「ありがとう。期待してるぞ」
「さようなら、イブ……そして、貴方を愛しています……さようなら」
その声に答えず、イブは受話器を置いた。溜息を吐く。幼い頃、孤児院で知り合い、ずっと私についてきてくれた男。私にとって唯一の家族だった。そんな男に全てを預けて私だけ一足先に三途の川を渡ることがどれだけ残酷なことか。
ふと、イブは30年前の一件を思い出し、古傷が疼くような感覚と、胸にチクリとした痛みを感じた。30年前、イブは銃弾を2発打ち込まれた。その代わりにその銃弾を放った男にその倍以上の銃弾を叩き込み、殺した。イブはその傷を作った男を恨んだことはなかった。むしろあの日のことを思い出すたびに悲しみと後悔を繰り返した。そして今、彼女はそれと似たようなことを娘にさせようとしていた。良心が痛まないと言えば嘘になるが、計画を中止することはできない。20年前から準備してきた計画なのだ。今さら中止できるはずも無い。結局私は自分の都合を一番に優先させる女なのだ。そう彼女は自嘲気味に笑う。だがそれでいい。それでよかった。
思索を終えるとイブは立ち上がり、地上へ行くための準備を始めた。白を基調とした船内を進み、シャトルの発射準備ができているか最終確認を行う。彼女はステーションの擬似重力発生装置の電源を切ってシャトルに乗り込むと、着地地点の座標を設定し、最後に射出ボタンを押した。
↓ これがログに残る文字数の限界だと言ったのに、無視して文字数オーバーしてくるなんて、やっぱりお父さんはキチガイでち!ふと、イブは30年前の一件を思い出し、古傷が疼くような感覚と、胸にチクリとした痛みを感じた。30年前、イブは銃弾を2発打ち込まれた。その代わりにその銃弾を放った男にその倍以上の銃弾を叩き込み、殺した。イブはその傷を作った男を恨んだことはなかった。むしろあの
戻る