昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
--荘周「胡蝶の夢」より--
1
少女は痛みに耐えていた。目の前の怪物に散々痛めつけられ、身体を動かすこともままならなかった。朦朧とする意識の中で、少女はガチャリという音を聞いた。その瞬間、覚悟を決めた。私はもうすぐ死ぬ。ふと少女の頭に、ある一節と共に過去の記憶が蘇った。思わず笑いそうになった瞬間、凄まじい衝撃が少女の体を貫き、視界が暗転した。
2
少女が目を覚ましたのは、機械油の漂う軍事工場の中だった。少女は長い長い夢を見ていたような気がしたが、その内容はすでに忘却の彼方に消え去っていた。
「ようこそ我が鎮守府へ」
突然声が聞こえた。少女が背後を振り返ると、一人の男が立っていた。
「私のことは提督と呼んでくれ」
なんだかひどく懐かしいような、ほっとするような印象を与えてくる男だった。少女は思わず男に向かって声をかけていた。
「ここはどこ、ですか?」
「軍事工場だ。君は、ある怪物に立ち向かうために人類がその叡智を結集して作り上げた兵器だ」
男は真っ直ぐ少女を見つめたまま、そう説明した。
「君の名前は大和だ。極東に位置していたある小さな亡国からとった名だ」
それから提督は今少女が置かれている状況を簡単に説明した。1匹の怪物によって、人類と呼ばれる種族が絶滅の危機にあること、提督自身も人類に属していること、少女は人類をベースに開発された兵器であること。説明が終わった後、少女は一つだけ質問した。
「いつ私は戦うのでしょうか、その怪物と」
「できるだけ早くだ。遅くとも3ヶ月後までには戦ってもらう」
そう言うと提督は少女に背を向けつつ、言った。
「今日は休め。明日から訓練を開始する」
3
いつもの軍事訓練の後。海沿いの堤防の上に座って、少女は隣に座った提督の話に耳を傾けていた。
「胡蝶の夢っていう話がある。知ってるか?」
少女は首を横に振った直後、その動きをはたと止めた。微かに聞き覚えがあるような気がしたからだ。
「中国の荘周という思想家が創作した話だ。内容を簡単に説明すると、この荘周という男が、胡蝶、つまり蝶だな。蝶になって気持ち良く飛ぶ夢を見たんだと。蝶っていうのは、二枚の羽をひらひら動かして飛ぶ生き物だ。昔は綺麗な色の羽を持った蝶が世界中に何種類も存在していたんだ。怪物によって、今はもう絶滅してしまったが」
少女は提督の話に集中することにした。
提督は時々こうして、堤防の上に少女と一緒に座って取り留めのない話をする。少女は提督の話を聞くのは好きだったが、海は好きになれなかった。鼻の曲がりそうな臭気を放つ、ドロドロとした紫色の水溜りを好きになるなんて無理な話だ、そう少女は思っていた。少女は、つい2、3年前まで、生命豊かな青い海が目の前に広がっていたことを知らなかった。
「話を戻すぞ。荘周は蝶になって飛んでいる夢から覚めた後、こう考えた。俺は今、人間として生きていて蝶の夢を見ていたと思っているけれども、もしかしたら今人間として生きている俺の方が、蝶が見ている夢なんじゃないか、とね」 そこまで言うと提督は少女の顔を覗き込んだ。少女も提督の顔を見つめ返してそれに答える。その瞬間ふと少女は既視感に捉われた。そんな少女の様子に気付くことなく、提督は再び口を開いた。「やれることを全てやりきって作戦を開始した後、不安で眠れない時が多々あるんだ。そう言う時、胡蝶の夢を思い出すとほんの少し気が楽になる。この滅びようとしている世界は実は夢なのかもしれない、本当の俺は平和な世界で寝ているだけなのかもしれないとね。そう考えると、なんでもできるような気がしてくるんだ。どうせ夢なんだから、作戦が成功しようと失敗しようと大したことないさ、ってね」
「提督……」
少女が生を受けてから2ヶ月が経とうとしていたが、戦況は苦しくなるばかりだった。提督の指揮力が不足していたのではない。相手が悪過ぎた。
束の間、沈黙が二人の間に降りた。
「大和は死について考えたことあるか?」
唐突な話題の変化に、少女は思わず提督の顔を見た。
「少し、あります」
少女は実際に戦場へ出たことは無かったが、訓練の過程で戦場における命の軽さを感じることは度々あった。
「大和、俺は死後の世界なんてものは存在しないと思うんだ。死ぬ間際に走馬灯が巡るって言うだろ。あれだよ。死ぬ瞬間に人は自ら歩んだ人生を再度体験するのさ。まずは生まれた瞬間から始まって、子供時代、大人時代へと自分の人生をそっくりそのまま再体験する。で、その人生の再体験の最後、死ぬ直前の記憶が終わった瞬間にまた最初に戻って人生を再体験し始める。そんな具合に永久に廻り続けるのさ。だから人は、主観的に見れば不死なんだ。ずっと人生という名の夢を見続けるんだと、俺はそう思ったりもするんだ」
一瞬の間ののち、少女はくすくすと笑い出した。提督が振り向く。
「何がおかしいんだよ大和」
「いえ、提督は凄くメルヘンチックというか面白い方ですね……可愛らしくていいと思います」
「可愛らしいとは心外だなぁ」
不服そうな顔で提督が呟く。が、すぐに真面目な顔になった。
「まぁだから、俺自身は死をそんなに悪いことだとは思ってないんだ。主観的に見ればね。ただ、客観的に、自分以外の人が死んでいくのは本当に辛い」
そう言うや否や提督は堤防から降り、少女の手を取った。少女はその手に体重を預けながら、地面へゆっくりと降り立った。
「じめじめした話ばかりしてすまない」
「いえ、私でよければいつでもお聞きしますから」
夕陽を背にして、提督と少女は来た道を歩いて戻っていった。
4
少女は、鎮守府の前で呆然と立ち尽くした。鎮守府が瓦礫の山と化し、あちこちで炎があがっていた。
「提督……!」
数秒間の硬直の後、少女は走り出した。辺りに散らばる瓦礫を持ち上げては傍らに積むという単純作業を繰り返す。
少女一人による瓦礫撤去作業は、始めてから2時間後に終わりを迎えた。生存者ゼロ、燃料、資材、弾薬全てゼロ。敵は完膚なきまでに人類の防衛拠点を叩き潰して去っていった。訓練で鎮守府を離れていた少女ただ一人を残して。
あまりの惨状に、少女は言葉を失って立ち尽くす。人類の未来は閉ざされたも同然だった。
突然、少女の背後で地響きがした。殺気を感じ、反射的に少女は右へ飛びのく。直後、凄まじい爆風を受け、少女は50メートルほど吹き飛ばされた。
「ギャハハハハ、薄汚いドブネズミがまだ一匹残っていやがった」
少女は直ぐさま立ち上がって辺りを見回し、そして怪物の姿を捉えた。
「お前が最後の切り札ってか?お嬢ちゃん……いや、大和ちゃんよぉ」
見上げんばかりの巨軀に無数の腕を生やした怪物が、体中に埋め込まれたおびただしい数の眼がこちらを睨んでいた。背の高さは50mを優に超えているだろう。牙の並んだ真っ赤な口腔から数え切れないほど多数の舌が垂れ下がっている。少女はすぐさま右半身の全砲の照準を怪物の口腔に合わせ、一気にありったけの砲弾を全力で叩き込んだ。反動で上半身が右に捻じれ、両足が地に沈む。
少女はすぐさま左側に飛びのいた。直後、少女がさっきまでいた場所で爆発が起こる。再び少女は爆風を受けて吹き飛ばされた。
「ギャハハハハ!流石にこれはちょっと痛いなぁ!流石はドブネズミの切り札、大和ちゃん」
少女は、吹き飛ばされた先ですぐさま体勢を立て直した。怪物の顔は、ざくろのように弾け、傷口から白い湯気がもうもうと立ち上っている。
「しかも耐久性能も高いみたいだねぇ」
少女はすぐさま左半身の全砲の照準を怪物の傷口に合わせ、間髪入れずぶっ放した。射撃の反動をいなし、左側に飛びのこうとした瞬間、背後で地鳴りがした。 次の瞬間、少女の身体は何かによって拘束されていた。少女が振り返ると、怪物の腕が地面から伸び、少女の体を掴んでいた。
「ギャハハハハ!つ・か・ま・え・た!」
言い終わると同時に怪物の眼が閃光を放つ。少女を中心に爆発が生じ、その全身を覆っていた分厚い装甲に亀裂がはしった。
「まだまだいくぜ、ギャハハハハ!」
無数の眼が代わる代わる閃光を発し、その度に少女の全身を爆発が直撃した。10回目の爆発の瞬間、少女は意識を失った。
5
「ギャハハハハ!美人に磨きがかかったんじゃねぇか?俺のおかげだぜ、感謝しな!」
怪物が、その身を窮屈そうに屈めて少女の前に佇み、嗤っていた。
「俺って裁縫の才能あるんじゃないか?アッハッハッハッハ、はぁ……可笑しいなぁ。そう思わないか?大和」
そう言うと、怪物は無数にある腕のうちの一つを伸ばして少女の顎に手を掛け、上を向かせた。
少女の顔は、平素のそれとは著しくかけ離れてしまっていた。唇上には斜め十字の縫い目が6つ並び、その端々から血を滴らせている。顔の下半分ははち切れんばかりに膨らんでおり、美しくすっきりと整っていた筈の顎の輪郭は今や見る影もない。
「アメリカ生まれのパイナップルの味はどうだ、大和よ」
少女はただ虚ろな目で怪物を見返すだけだった。激痛に意識を持って行かれないようにするだけで精一杯なのだ。今、彼女の口内には手榴弾が突っ込まれていた。第二次世界大戦中に米国で開発されたマークII手榴弾。外殻に刻まれた格子状の溝から、パイナップルの愛称で呼ばれている。直径が48mmあるこの爆弾は、そのままでは少女の小さく整った口に入りきらず、怪物によって顎関節を外された上で喉奥までめいいっぱいに突っ込むことで口内での保持を可能にしていた。喉奥まで突っ込まれた手榴弾のせいで少女は何度もえずき、その度に縫われて閉じられた唇の隙間や、縫い目の穴や、鼻の穴から緑色の吐瀉物を垂れ流していた。
「反応も鈍くなってきたしもう終わりにするか」
そう言うや否や、怪物は少女の顎に掛けていた手の指を少女の右頬に突き立てた。赤い血が滴り、乾いた地面に二つ、三つと染みを作った。少女は僅かに身じろぎしたが、それだけだった。彼女には抵抗するだけの体力がもう残っていなかった。
「あばよ、大和ちゃん」
ガチャリ、という音とともにピンとレバーが外れた。その瞬間、少女は覚悟を決めた。私はこれから死ぬ。口の中のパイナップルに上半身を吹き飛ばされて死ぬのだ。恐怖はあったが、それほど大きくは無かった。これで終わる、という安堵の方が大きかった。
「大和、俺は死後の世界なんてものは存在しないと思うんだ。」
ふと少女の頭の中にそんな言葉が思い浮かんだ。提督の言葉だ。確か死後の走馬灯の話だった。だから人は主観的に死ぬことは無いとかいうとんでもない話だった。
今思えば提督は少々変わった人だった、そう少女は思った。普通あんなことを考えつくものだろうか、少なくとも私は思いつきもしなかった、そう少女は思う。あの時は提督のことを笑ってしまったけど、そういう浮世離れした所も魅力的だった、そんなことも思った。提督は死ぬ瞬間、走馬燈を見たのだろうか。極限まで微分された時間の中でぐるぐると永遠に人生を体験し続けられたのだろうか。私はどうだろうか。短い、3ヶ月にも満たない人生を、提督との取り留めの無い会話を、永久に何度も楽しむことができるのだろうか。そんな考えが少女の脳裏をめぐる
その瞬間、凄まじい轟音と衝撃が少女の全身を貫き、少女の視界は暗転した。
6
少女が目を覚ましたのは、機械油の漂う軍事工場の中だった。少女は長い長い夢を見ていたような気がしたが、その内容はすでに忘却の彼方に消え去っていた。
「ようこそ我が鎮守府へ」
突然声が聞こえた。少女が背後を振り返ると、一人の男が立っていた。
「私のことは提督と呼んでくれ」
(了)
(00:34:07から01:17:59)

一度に長すぎる文章を投入すると尻切れトンボになると言ったのに、人の話を聞かないなんて、お父さん、少しハゲ散らかしすぎでち


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